結局、入部したのは5月のゴールデンウイーク明けでした。野球がやりたくてやりたくて、しょうがなかったな〜!名護中で鍛えられたプライドと自信がありました。監督の宮城鉄夫先生は、中学校時代にも何度か見に来てくれてたので、「待ってたぞ〜」と喜んでくれたのを覚えてます。
当時の名護高校野球部は、投手力・打力共に弱かったです。入部して間もなくの紅白戦に病み上がりの私を、控え組みの1番ショートで使っていただきました。ヒットこそ出ませんでしたが、3年生エースのボールを真っ芯で捕らえた記憶があります。「大したこと無いな〜、打てる」と感じていました。しかし骨折の影響で全力疾走が出来る状態ではなかったです、それでも6月から始まった夏の選手権では、背番号16番でベンチ入りさせて頂きました。
開会式では、たまたま憧れの豊見城高校の隣に並び、石嶺さん・神里さん・比嘉康哲さん等の当時の
スーパースターのそばで興奮したのを覚えています。チームの結果は初戦で八重山農林(アンダースロー高道)に抑えられ破れ、私の出番はありませんでした。
早速、新チームになりましたが、鉄夫先生のスパルタ指導に付いて行けず、多くの先輩・同輩が辞めていきました。そんな状況の中、夏休みに入り、地獄の八重山合宿に突入しました・・・続く
